高エネルギー物理学将来計画検討小委員会

最終答申(序文、答申、要約)

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1997年5月19日

委員

萩原薫(KEK)、井上研三(九州大学)、 川越清以(神戸大学)、金信弘(筑波大学)、 駒宮幸男(東京大学、委員長)、久野良孝(KEK)、 蔵重久弥(京都大学)、 松井隆幸(KEK)、鈴木厚人(東北大学)、 鈴木史郎(名古屋大学)、峠暢一(KEK)、 徳宿克夫(KEK)、柳田勉(東京大学)、 山中卓(大阪大学)、山内正則(KEK)、 山崎良成(KEK)、吉岡正和(KEK、幹事)


序文

我が国の高エネルギー物理学はTRISTAN建設によって新たな局面を迎えた。 即ち一挙にエネルギーフロンティアに躍り出ることにより、日本の加速器技術 は著しく向上し世界のトップと肩を並べるに至った。又、国外にフロンティア としての研究拠点を求めていた時代は終わり、国内でも国際的に評価さ れる最先端の研究がなされるまでに日本の研究者は力をつけた。 TRISTANは新粒子の発見には恵まれなかったものの、 グルオンの自己結合の検出、光子の深部構造理解の 飛躍的進展、電磁気力が短距離で強くなることの検証等、世界的に 評価される数多くの研究成果が発表された。

ここで高エネルギー物理学とは加速器を用いた素粒子物理学の実験的研究の ことである。戦後の復興期から最近にいたるまで、高エネルギー物理学を含め た我が国の基礎科学研究は欧米に依存していた部分が多かったことは 否めない。しかしながら現在 我が国は基礎科学についても国際的に十分に貢献し得る技術力、産業基盤並び に経済力等を有するに至った。長期的展望に立った国際貢献を果たすためには、 国外の研究機関における国際協力を推し進めるだけでなく、国内において世界 的規模の研究設備を充実させ、最先端の科学技術をきりひらき、人類の新たな 文化の創造に資することが必要である。

現在、高エネルギー物理は「標準理論」とよばれる一つのパラダイムがほぼ 完成したが、質量の起源などの様に根源的な疑問は未だ解決されていない。こ れらの疑問に解答を与え、新たな地平を切り開くのは近い将来の実験的発見に よると我々は確信する。この状況の下、ヨーロッパ諸国の科学者は 次期ハドロンコライダー LHCの建設を決めた。しかし標準理論を越えた物理の方向を確実に決定するた めにはe+e-リニアコライダーによる実験が不可欠である。 従って我が国の高エネルギー 物理学の次の基幹計画は、我が国がホスト国となりe+e-リニアコライダーを 建設することであり、これは国益にもかなった国際貢献の一つであるという 学界内でのコンセンサスを形成するに至ったのである。

KEKB計画の発足、米国のSSC計画の中止などの大きな情勢の変化に伴い、高 エネルギー委員会は最近の世界の学界の情勢を分析し、今後10年間を俯瞰して 日本の高エネルギー物理学(素粒子実験物理学)の進むべき方向を検討するた めに、1994年に第二次将来計画検討小委員会の発足を決定した。本小委員会は 1994年8月に活動を始め、将来計画、特にe+e-リニアコライダーの物理と技 術を検討した。この間、LEP/SLCでの超精密測定により標準理論を越える物理 の示唆が与えられ、TEVATRONではトップクォークが発見されるなどの学問上 の新しい展開があり、e+e-リニアコライダーに対する期待が更に強まった。 この様な状況の下、本小委員会は約1年の活動の後、1995年7月に特に緊急性の 高いe+e-リニアコライダー の早期建設に関する中間答申を高エネルギー委 員会に対して提出した。その後もリニアコライダー及びそれ以外の高エネルギー 物理学将来計画の検討を行い、議論を重ね、本答申を提出するに至った。


答申

我々は我が国の高エネルギー物理学の将来計画として以下の提言をなす。

  1. リニアコライダーを日本における高エネルギー物理学研究の次期 基幹計画とする。
  2. 現在建設中のKEKB計画を予定通り遂行することは重要である。また 、そ の他の国内・国外における加速器・非加速器実験の諸計画も、広範な学問基盤 の形成のために推進する。
  3. 基幹計画及びその他の諸計画を推進するため、人材育成を図る。


要約

近い将来行なわれる実験によって高エネルギー物理学が新たな方向性を見出し、 大きく発展すると考えるべき十分な根拠がある。 現在の素粒子物理の「標準理論」は、 ゲージ対称性という原理が基礎になっている。この対称性の下では、 全ての基本粒子は質量を持たないのが自然である。 「標準理論」の最も重要な未検証部分である 「基本粒子に質量を与えるメカニズム」 即ちゲージ対称性を破る機構の実験的解明こそ、 標準理論を越えて新たなパラダイムへ向かう方向性を見出すものである。

これはヒッグス粒子と呼ばれる質量を与える機構に関与する粒子を 発見し、この性質を解明することによって可能となる。

「標準理論」を越える理論として現在最も有望な「超対称性大統一理論」は、 150GeV以下の質量をもつヒッグス粒子が少なくとも一つ存在することを予言し ている。この軽いヒッグス粒子の存否の決定とその性質の解明こそ、現在の高 エネルギー物理学に課せられた最重要かつ緊急の課題である。

この軽いヒッグス粒子の存否を確実に決定し、かつ、発見した暁にはさらに その性質の詳細を解明できるのが、e+e-リニアコライダーを用いた実験である。 それ故にここ10年以上世界中でe+e-リニアコライダーの研究開発が活発に行 われてきた。我が国もトリスタンの建設により世界の最先端に肩を並べるまで になった加速器技術を基礎にして、e+e-リニアコライダーの研究開発を他国 との競争と協力により積極的に行い、大きな成果を挙げてきた。そしていよい よ、現実的な設計にとりかかろうとしている。

一般にLHCの様な陽子−陽子コライダーは非常に大きな質量の新粒子まで生成で きる。しかし、新粒子の信号に対する雑音レベルが一般に高いので、 大量に生成され、かつ著しい特性信号 をもたらす新粒子しか発見できないと考えられる。 これに対してe+e-リニアコライ ダーにおける実験では新粒子の信号と雑音とが一般に同じレベルで、 かつ素過程が単純なので予言も正確で ある。従って新粒子がe+e-コライダーのエネルギー範囲にあれば、 その発見は容易であり、かつその粒子の性質の解明も可能である。

e+e-リニアコライダーが素粒子物理の進展にとって最も有効な貢献 をするのは、ヨーロッパの陽子−陽子コライダーLHCによる実験とほぼ同時期 に、重心系のエネルギーが250〜500GeVでの実験を開始する場合である。 リニアコライダー実験によって、軽いヒッグスボソンの有無を模型の詳細に よらずに確定することが、LHC実験の新しい物理発見能力を飛躍的に 高めるということが期待されるからである。 本小委員会は、1995年にこのe+e-リニアコライダー(LC1)の早期実現を小 委員会の中間答申として提言した。 これは最近の加速器研究開発の飛躍的発展を鑑みると実現可能であると考えられ るからである。 更に第二期計画(LC2)として、約1TeV又 はそれ以上の重心系エネルギーへの増強がLC1完成後に図られるべき であるということを提言した。LC2ではLC1 の成果をふまえ、 カラーを持たない超対称性粒子の発見やその特性の測定、重いヒッグスボソン の探索などを行なう。 又、たとえ 軽いヒッグス粒子が存在しない場合もLHCでのWW散乱の研究と共に、 W+W-対生成やトップクォーク生成などの精密実験等により 質量の起源解明の糸口 を見出し得るであろう。このe+e-リニアコライダー計画を我が国の高エネル ギー物理学の近い将来の基幹計画と位置づけ、その早期実現のため、我が国が ホスト国として名乗りを挙げることが、我々高エネルギー物理研究者のコン センサスであるとして、このことを本小委員会は中間答申において明確に提言した。

リニアコライダーは国際的な批評に耐えうる技術設計により建設されるべき であり、そのための開かれた開発、建設体制づくりは必須である。基幹計画で あるe+e-リニアコライダーの円滑な推進にあたっては、高エネルギー物理の コミュニティーが総体としてプロジェクトに取り組むことが重要であり、 コミュニティー の意見をプロジェクトに十分に反映させる必要がある。そのためには、大学及 びKEKのリニアコライダーを推進する指導者からなる委員会を発足させ、ここ でコミュニティーの意見を汲み取り、また、情勢の分析を行って様々な可能性 を探り大きな方針をうちたてるべきである。その方針を尊重し、KEK はこのプロジェクトを責任を持って遂行するために「LC推進室」を設置 し、これが加速器の開発研究、建設、実験の準備を統括して推進する中心とな るようにすべきである。

ヨーロッパでLHC、アジア・太平洋地域でe+e-リニアコライダーにより 研究を推進することによって、お互いに刺激しあい、 かつ協力しあうということが出来れば、素粒子物理学の発展は世界的に加速される。 e+e-リニアコライダー建設は、我が国がホスト国として主体的に計画を遂行 すると同時に、全世界、特に現在著しく発展しつつあるアジア・太平洋 地域の諸国と協力して行うべきである。又、e+e-リニアコライダーにおける 実験は、国際的にオープンに行うべきである。 リニアコライダー計画はこのように我が国の基礎科学に おける国際貢献事業の一つとして位置づけるべきであり、1995 年の国会において超党派で成立した科学技術基本法の精神にも合致する プロジェクトである。 我が国が将来の 高齢化・高福祉社会においても活力ある経済、文化活動を行っていくためには、 次世代の担い手たちを鼓舞するプロジェクトが必要であり、 科学技術、特に基礎科学に今こそ投資すべきである。

欧米先進諸国へのキャッチアップの時代が終わり、国際的な貢献が期待 されている今日、我が国が21世紀に果たす役割は、未踏の基礎科学に取り組み、 国際的協調と分担の中で人類が共有する新たな知的財産の創出を担っていくこ とである。このためにも、人類共有の財産である学問的、文化的成果の期待さ れるプロジェクトを積極的に遂行すべきである。e+e-リニアコライダープロ ジェクトはこの様な大きな展望の下に位置付けられるものである。

これまでの高エネルギー物理学はエネルギーフロンティアにおける加速器実験 を中心に進展してきた。我が国の基幹計画であるe+e-リニアコライダーはこ の基本路線上にある。しかしながら学問の進展は予測もされなかった所から生 ずる場合もあることは、今日までの歴史が証明している。従ってエネルギーフ ロンティアの基幹計画を優先させつつも、これと相補的な多種多様な実験計画 は、広範な学問基盤の形成のためにも重要である。特に低エネルギー大強度 e+e-コライダー、KEKB計画は実験開始後10年以上にわたって重要な結果を 出し続けることが期待されている。これを予定通りに遂行し、素粒子物理に於 ける基本的問題の一つであるCP非保存の機構の解明の手掛かりをつかむことは 重要である。

その他の国内計画としては、我が国が主体的に計画し多くの成果が期待されるスー パーカミオカンデを筆頭とする様々な非加速器実験があり、核子崩壊、ニュー トリノ振動、暗黒物質の探索等の研究を行うことで素粒子物理、宇宙物理双方にとっ て新たな突破口が得られると期待されている。

又、本来原子核分野のプロジェクトである「大型ハドロン施設(JHF)」に おいても、大強度のK-中間子, パイ中間子, 中性子等の二次粒子ビームを利用して 「標準理論」を越える物理の手がかりとなる 稀崩壊現象やニュートリノ振動などの素粒子物 理の多彩な実験が期待されている。

一方、国外の研究所において我が国は国際協力実験に参加し、様々な成果を 挙げてきた。コライダーを用いた実験では、米国のTEVATRON実験でのトップクォー クの発見に貢献した。又、SLCでは偏極電子ビームを用いた実験に参加している。 ヨーロッパではCERNのLEP実験でZボソン、Wボソンの研究から 「標準理論」の詳細検証を行い、 DESYのHERA実験では電子と陽子の衝突によって陽子の構造の研究を行ってきた。

コライダー以外ではCERNでのニュートリノ振動の実験を遂行し、 Fermilab、BNL等ではK中間子を用いたCP非保存稀崩壊等の実験を行っている。 これらの国際協力実 験への参加は物理の第一級研究成果を挙げるに留まらず、国際的な環境で協力 して研究を進めていける国際感覚を持った人材の育成と、将来の大掛かりな国 際協力を進めていく上での人と人との繋がりと経験を得るのにも重要である。

基幹計画である$\epem$リニアコライダー計画とともに重要なCERNのLHC計 画には、実験のみならず加速器建設に対しても我が国は大きな貢献をしている。 LHC計画は2005年に実験開始の予定であり、CERNの加盟国であるヨーロッパ諸 国が中心となり、他の地域の非加盟国が実験に参加する際には加速器への財政 的貢献を求めるという新しい方式をとっている。これに対して、HERAはドイツ がホスト国となり、加速器建設の不足分を諸外国に貢献してもらうという方式 をとっている。これらの国際協力形態は、我が国がホストとなってe+e-リニ アコライダーを建設する際の参考となる。我が国が世界の研究者を受入れるの に相応しい環境の整備を進めることが極めて重要であり、学ぶべき点が多い。

いかにプロジェクトが大きくなっても研究の推進力は個々の研究者、技術者 の創造性であり、熱意にあることには変わりない。それらを引き出すことので きる組織が必要であり、かつ科学的に正当な国際的な評価を受け汲み上げる組 織を作ってプロジェクトが遂行されなければならない。基幹プロジェクトであ るe+e-リニアコライダー建設などの大きな事業を遂行するためには、若い世 代の研究者層育成が必要であり、中央研究所(KEK)と大学との効果的な協力 体制を検討すべきであり、大学活性化小委員会の活動を支持し、広い視野に 立った議論を期待するものである。特に、中央研究所への予算、人員の集中は一見 効率的である反面、大学グループの主体性と責任分担に基づいた中央研究所と の長期的協力という点を考えると実態に即さない面もある。大学への予算の割 り当てと運用の形態を改善し大学の基幹設備の充実をはかり学界全体の底力を つけるべきである。

基礎科学の成果の多くは、その時代の経済活動や生活への直接的応用が考え られなくても、後の時代における技術革命をもたらすことは歴史が証明してい る。更に、基礎科学から生まれた技術は即座に工業技術の発展を促すこともあ る。高エネルギー物理の波及効果としては加速器技術の応用の数々が挙げら れる。放射光を利用した物質構造の解析や半導体集積回路の生産等産業への応 用、中性子を利用した生体高分子等の構造解析、医療への加速器の応用等枚挙 に暇がないほどである。夢の光源として期待されている自由電子レーザーの実 現にとって最も有望な候補は、輝度の高いリニアコライダーの電子源 そのものであり、 いくつかのリニアコライダーの試験機で自由電子レーザー計画が実現されよう としているのも、その例である。又、高エネルギー実験からの要請によって牽 引されてきた技術として、大容量高速コンピュータ、高速電子回路、高精度の 工作技術等が挙げられる。

高エネルギー物理学を含めた基礎科学の本質は、真理の探求であり、人類の 知的好奇心に基づく文化の創造活動である。かつて質量の起源や宇宙の創成な どは、科学上の問になり得るかについてさえ疑問視されていた。 1970年代から80年代にかけての「標準理論」の確立により、われわれは素 粒子の相互作用をほぼ完全に記述できるようになり、素粒子の質量の起源こそ が自然の次の階層を明らかにする鍵であることがわかった。質量の起源はLHC やe+e-リニアコライダーによって実験的に解明されるであろう。又、素粒子物 理学の発展によって高エネルギー状態での素粒子反応が理解されていき、高エ ネルギー状態にあった創成期の宇宙で何が起こっていたかが推測可能と なり、ビッグバン宇宙論の展開と相俟って今日の宇宙論の発展がもたらされた。 質量の起源の解明、物質と反物質の非対称性の理解、宇宙の暗黒物質とな る素粒子の発見等、期待される素粒子物理学の発展が我々の自然と宇宙の更な る理解に及ぼす影響は計り知れない。このように高エネルギー物理学は活気ある 学問として21世紀にもさらに大きな発展が期待され、新たな進展が期待される他 の学問分野とともに強力に推進されるべきである。